もりおか歴史文化館の企画展に関するネタを、不定期にご紹介する「企画展の窓から」シリーズ。今回は現在開催中の企画展「『雑書』の世界-家老が書き残した盛岡藩-」からです。

本来企画展期間中に何度か更新したいところでしたが、気が付けば会期終了まであとわずか。せめてこの話題だけでも、こちらでご紹介したいと思い、会期終了間近ではありますが、日誌の方を更新させていただきました。ちなみに企画展全体を通しての解説はYouTubeもあげていますので、そちらも是非ご覧ください。

 

さて本題ですが、皆さんは「南部四天王」をご存じですか?

今回の企画展は盛岡藩の家老がまとめた『雑書』という1つの資料に絞った展示でしたが、記録主体である盛岡藩の家老についても展示の中で触れました。そこで盛岡藩家老を務めた家の中に、南部氏が甲斐国にいたころ以来の譜代家臣がおり、さらにその中に南部家の「四天王」がいるということをご紹介したところ、多くの方から反響をいただきました。展示やYouTubeの解説などではあまり詳しく語る余裕がなかったので、今回こちらで南部四天王について、まとめておければと思った次第です。

『公国史(官職志)』

 

まずこちらの資料。盛岡藩士の星川正甫がまとめた盛岡藩の歴史書『公国史』のうち、盛岡藩の職制についてまとめられた「官職志」です。展示では家老の項の前半にかかれた職制「衆務を統理して国家の成敗を惣判す」の部分の紹介をするにとどめましたが、実はそのあとに「光行公の時、三山(上の誤り)氏・桜庭氏・安芸氏・福士氏、是を四天王と称す、今の家老職也と云、」と続いています。つまり南部氏の始祖である南部光行の時、時代は鎌倉時代初期まで遡るわけですが、そのころの家臣の中で三上・桜庭・安芸(小笠原のち奥瀬)・福士(のち織笠)の4家が「四天王」と称され、彼らが家老職の始まりだとされているのです。この資料が鎌倉時代から数百年後の江戸時代後期に書かれたものですので、史実か否かを断定することは難しいですが、少なくとも江戸時代の盛岡藩においては、南部家に「四天王」がいたことが認識され、何より四天王の流れを汲む家自体が、その由来を大切にしていたことは事実のようです。展示ではこのうち盛岡藩家老を何度も輩出した奥瀬氏について、『参考諸家系図』(江戸時代後期に編纂された盛岡藩士の系図集)を使ってご紹介しました。

 

『参考諸家系図』奥瀬氏の項

「奥瀬氏(小笠原氏)」

この家の先祖は初め小笠原安芸を名乗っていましたが、定直の代にいたって、南部晴政より糠部郡奥瀬村(現在の青森県十和田市奥瀬)を賜り、それ以降、奥瀬を名乗るようになったとあります。先ほど四天王の並びに安芸氏とあったのは、この先祖の通称であったことがわかりますが、他の資料でも「安芸」・「小笠原」・「奥瀬」など表記が一定していません。四天王の一角を担う家でありながら、四天王の家として認識されにくいのは、このような表記のブレが原因としてあるかもしれません。先祖の小笠原安芸については、南部氏と同族で甲斐源氏の名門である小笠原氏(南部光行の兄、長清が小笠原の祖とされる)との関係性も気になるところですが、確かなことは不明といわざるをえません。ただこの小笠原安芸の事績として、「光行公ニ従テ建久二年甲斐ヨリ糠部ニ来ル、三上氏・桜庭氏・福士氏ト相並テ四天王ト称シ、国政を掌ル」と家の輝かしい由緒が語られています。その後、江戸時代を通じて多くの分家を派生させていきますが、このうち2つの家から次々と家老を輩出させていきます。いわゆる本家以外の家からも家老が出ていることは注目されます。

 

「桜庭氏」

四天王のうち、奥瀬氏ほどではないものの、盛岡藩家老を多く輩出した家に桜庭氏があります。『参考諸家系図』によれば桜庭氏は宇多源氏とされていますが、初代とされる桜庭良綱の事績に「光行公ニ従テ建久二年十二月甲斐ヨリ到る、三上氏・小笠原氏・福士氏ト相並テ四天王ト称、国政を掌ル」とあり、やはり四天王の由緒を誇っています。ちなみにそれに続く「初糠部御入部ノ時御旅行御祝儀良綱ノ宅ニ臨ス、後御発駕ノ時私第ニ臨スル事後世永式トナル」というのは、桜庭氏にとってのもう一つの誇らしい由緒になります。すなわち南部光行が初めて陸奥国糠部郡に向かう前、桜庭氏の屋敷に立ち寄ったことが名誉とされたのでしょう。これが先例となり、江戸時代に藩主が参勤交代で盛岡を出発する前にも、必ず桜庭邸に立ち寄ることが恒例行事となりました。そのため、参勤交代前に桜庭邸で行う一連の儀礼などがまとめられた、次のような図も残されています。

『渋表紙』桜庭屋敷御首途之図

 

「織笠氏(福士氏)」

つづいてご紹介する織笠氏は、一応家老を輩出したことはあるものの(南部利雄期の織笠弾正安貞)、奥瀬や桜庭ほどではないため、印象は薄いかもしれませんが、こちらもれっきとした四天王の家になります。『参考諸家系図』によれば、この家の始祖である義元は武田信義二男の板垣兼信の三男であるとされています。あの武田氏の一族ということになります。そのため初めは板垣義元と名乗っていましたが、南部光行に仕えるようになって甲斐国福士ノ郷を賜り、福士氏を名乗るようにったとされます。そして定型句のようでもありますが「建久二年従テ糠部ニ来ル、三上氏・桜庭氏・小笠原氏ト相並テ四天王ト称シ国政ヲ掌ル」とあります。そして室町時代の福士保定の時、南部義政から閉伊郡織笠村(岩手県下閉伊郡山田町織笠、ほかに飯岡村・大沢村も)を賜り、織笠氏を名乗るようになったということです。その後、南部信直のころ織笠盛貞が逆意を疑われ一時浪人しますが、次の代には再び召し抱えられ、以降、家老を含む藩の要職に就く家にまで復活しました。

 

「三上氏」

さて最後に残った三上氏については、江戸時代の盛岡藩において家老を務めた形跡は認められません。そのためか、四天王の中でも特に認知度が低い家かもしれません。『参考諸家系図』には三上氏は宇多源氏の流れを汲み、先祖は「近江野須郡三上ノ人」であるため三上を名乗ったとあります。そしてやはり「光行公ニ従テ甲斐ヨリ到ル、此時桜庭氏・小笠原氏・福士ト相並テ四天王ト称シ国政ヲ掌ル」とあります。ただその後、嫡流が断絶してしまったようで、他の四天王に比べ目立ちにくかったのも、そのためかもしれません。しかし庶流が脈々と続いており、南部信直のころには三上高光が活躍し、その子孫は御用人や花巻郡代など盛岡藩の要職も務めています。家老にはならなかったものの、四天王の家として、江戸時代を通じて盛岡藩で活躍した家といえそうです。

 

以上、南部四天王について、個人的に是非広まって欲しいという想いが強すぎたせいか、随分長々と書いてしまいました。四天王といえば徳川四天王や武田四天王(四名臣)など戦国時代のものが有名ですが、南部四天王は南部光行のころ、平安時代末期から鎌倉時代初期ですので、時代的には源義経四天王、あるいは少し早いですが源頼光四天王あたりに近いかもしれません。いずれにせよかなり伝説的な部分も多い四天王である点は、南部四天王も同じです。しかしこの四天王の家が、詳細は不明ながら鎌倉・室町・戦国と南部家に仕え続け、その由緒をもって江戸時代を通じて南部家を支え続けていたことは間違いありません。この機会に一人でも多くの方に南部四天王を知っていただけたら、大変うれしく思います。

 

担当学芸員:熊谷博史