現在開催中の企画展「南部家のたしなみ-舞う・点てる・聞く」に展示中の資料、今まで制作年代などが不明だった資料があります。10代盛岡藩主南部利正が記したと伝わる「茶会記」です。解明に至る汗と涙、当館学芸員の総力による発見の瞬間をご紹介します。 ※〈 〉内は担当の心の声

※茶会記とは、茶会の日時・場所・道具立て・会席膳の献立、参加者の名前など記したものです。

 

資料「茶会記」 南部利正/天明3年(1783)

 

まず、担当学芸が茶会記を判読するところから始まります。

一応何とか文字にしてみたものの、たしなまない担当にとってはほぼ意味不明。 〈読んでみたけどねぇ…〉

 

茶会の日時は、2月8日。

場所は、…とりあえず不明。

道具立ては、「一、掛物」から「一、香合ノンコウ亀」まで。 〈道具帳に載っているか調べた方がいいかな。〉

会席膳の献立は、「向」から「惣くわし」まで。 〈色々食べるなぁ。茶菓子2種、どんな菓子かは不明…残念。〉

参加者は、酒井雅楽頭殿、丹羽加賀守殿、春波。 〈ん?酒井雅楽頭殿にて?にてって何だ?場所? 春波?〉

 

何となく分かってきたけど、まだまだ具体的ではないのでもっと調べる必要がある。

まずは、道具帳に記載があるか調べよう。道具帳とは、南部家が旧蔵していた様々道具のリストで、この中に道具の記載があれば南部家で茶会を行ったと言うことができる。3種類ぐらいの道具帳を確認して見たが、似たような道具名は見られるものの決め手に欠くものばかり。 〈う~ん…〉

 

次は、参加者について調べる。

以前、当館で展示したことがあり、その際に人物についてすでに調査されている。

酒井雅楽頭殿 → 2代姫路藩主酒井雅楽忠以  〈おっ、絵師の酒井抱一のお兄さん!〉

丹羽加賀守殿 → 7代二本松藩丹羽加賀守長貴  〈ふ~ん〉

春波 → ? 〈???〉

 

担当には、なじみのない人物ばかりなので、確認してみる。

酒井忠以(1756−1790)  〈難しいから、タダモッテと呼ぼう。〉

世界文化遺産姫路城があるところの人。芸達者。お茶関係でいうと石州流茶道(4代将軍家綱以来将軍の茶道指南役を務める流派)を皆伝されているほどの腕前。俳句集も出していて、俳号は銀鵝(ぎんが)!22歳から書いている日記があり、筆まめさん。〈利正も俳句好きだから趣味は合いそうだ。〉

丹羽長貴(1751−1796) 〈にわさん〉

二本松の人。大火や飢饉でおとろえた藩の再建のため藩政改革を行い、救民政策で人々を救ったらしい。 〈なかなかの御仁。〉

春波? 見当もつかないので「春波 茶人」でググると、鈴木春波がヒット。

江戸時代後期の幕臣で茶人。石州流茶道を学び数寄屋頭格を務めたようだ。 〈石州流ならタダモッテとつながりがあるかも。でも本当にこの人か?〉

 

≪いやぁ、どうしても「酒井雅楽頭殿にて」が引っかかるなぁ…利正が招かれた方なのか?≫

 

ここで他の学芸員に相談する。

テーマ:この茶会は、利正が主催した茶会か、招かれた茶会なのか、判断できるものだろうか?

「難しいし、厳しい。」

「「酒井雅楽頭殿にて」以外にも、道具の一つ目「一、掛物」で「作者不分」とあるのは気になる。自分の茶道具なら知っているはずで、「作者不分」とは書かないのでは。」

〈う~ん、なるほど~。説得力ある。やっぱり利正が招かれた方なのか?〉

「とはいえ、この資料からこれ以上は何か断言することはできない。筆まめの酒井さん、日記に書いてくれていたら…」

〈だよねぇ、南部家の殿様たちは日記書いてないのよぉ…もうぉ〉

 

その後、ちょっと気になったので、酒井タダモッテの日記「玄武日記」をググると、「世界文化遺産姫路城アーカイブ」というサイトで「玄武日記」の画像が公開されていた!! 〈もう、これは見るしかない!!〉

「玄武日記」は安永5~天明8年(1776~88)が残されているので、とりあえず、古い年から2月8日だけを見ることにする。 〈あまりに読みにくい字だった諦めようかな…〉

 

安永5年、安永6年、安永7年、 〈ないなぁ、こんなことやっている場合か?展示開始まであと10日しかないのに…、あぁ~でも…〉

安永8年、安永9年、天明2年、

天明3年2月、〈この日記に大分慣れてきた、はいはい2月、2月。2日は能をやっているよ、大風なのに。〉

 

8日晴… 正午時より丹羽加賀守・南部大膳大夫、茶事に被来候事〈詰鈴木春波〉。八半時過被帰候事。

〈ほうほう、一、正午?…丹羽…南部… 丹羽に南部!!!!!〉

2月8日、正午より丹羽と南部が茶の湯に来た(鈴木春波が詰めていた)。8ツ半過ぎに帰った。

ちなみに、正午から八半時に行われているので、正午に席入りする茶会で、会席、濃茶、薄茶などが一通り出される昼食を伴ったもので、3、4時間程の茶会であったと思われます。

 

ついに、「玄武日記」の天明3年2月8日条に茶会の記事を発見!

その後、当館の学芸員みんなでこの日記の記事を共有し喜び合いました。

 

たった3行の文ではありましたが、知りたい情報すべて詰まった端的な日記でした。

日記に書いた酒井タダモッテ様に感謝、そしてこの日記の画像を公開してくれていた「姫路市立城郭研究室」様に感謝。そして、差し迫った状況の中、私の小さな引っ掛かりに真剣に答えてくれ、自分のことのように喜んでくれた学芸員の皆にも感謝。いつもいつもこのように助けてくれます。今回は、たまたまラッキーなことに関連資料に出会うことができ、僅かながら茶会の状況に迫ることができました。ほとんどの場合は、分かることなく終わってしまいます。ですが、あきらめず学芸員一丸となって、日々資料に向き合い、盛岡の歴史と文化の解明に励んでいます。

 

今回は、そんな日々の一コマから解明に至った展示資料についてお伝えしました。裏話を知っていただいてから資料を見ると、ちょっと地味に見える資料も光輝いて見えるかもしれません。ぜひ、ご来館ください!!

 

担当学芸員:小原祐子