本日は5月5日、端午の節句です!

鯉のぼりをあげて、柏餅や粽(ちまき)を食べるなど、現在では「子どもの日」として広く親しまれていますね。

※鯉のぼりで人魚ごっこをしたことがある人は挙手 >゜))))彡

日本で行われる多くの節句行事は、災いが起こりやすい(病気などにかかりやすい)季節の変わり目に、穢れや厄を祓い、身を清めて無病息災などを祈る風習が基盤となっています。

節句行事には季節の植物が付き物ですが、端午の節句の場合によく取り上げられるのは「菖蒲(しょうぶ)」です。菖蒲は刀に似た形の葉や香の強さから邪気を払う植物と考えられました。奈良時代になると宮中では「菖蒲(あやめ)の輿(こし)」を飾ったり、屋根(軒)に葺いたり、菖蒲などの薬草を束ねた「薬玉(くすだま)」を御帳の柱に飾ったほか、現代にも伝わる「菖蒲湯」も行われるようになりました。
鎌倉時代になると、「ショウブ」は「勝負」や「尚武」に通じる音だとして、主に武家の間で盛んに節句行事が行われるようになりました。端午の節句が男の子の健康と成長を祈る節句と考えられるようになったのはこの頃からです。この日には兜や刀の他、金太郎や弁慶などたくましく雄々しいイメージの人物をかたどった「五月人形」を家に飾り、江戸時代頃からは庭先に鯉のぼりを飾るようになりました。また、端午の節句に柏餅を食べる地域も多くありますが、これは柏の木は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」ための縁起物とされたためです。この考え方も、鎌倉時代以降に生じた武家の「御家意識」が強く反映された習慣と言えるでしょう。

「大和耕作絵抄」/『日本風俗図絵』第五輯より(日本風俗図絵刊行会)1914

もりおか歴史文化館収蔵

 

また、ジョウセツ展の小窓⑥では上巳の節句の由来譚をご紹介しましたが、今回は端午の節句の由来譚をご紹介します。

 

「楚(そ)の懐王(かいおう)に仕える、屈原(くつげん)という人がいました。詩人としても政治家としても大変有能な人物でしたが、その優秀さを妬んだ同僚たちが、懐王に屈原の悪い嘘の噂を伝えました。秦に対する政策で意見が対立していたこともあって、王はこの話を信じて、罪のない屈原を遠ざけてしまいます。その後懐王は秦に捕らわれ、次の傾襄(けいじょう)王の代になってからは屈原の立場はさらに悪くなって、遂には江南に左遷されてしまいました。

屈原が都を離れてしばらくして、楚の王都が秦に占領されたという知らせが届きました。左遷されてもなお非常に愛国心の強かった屈原は、祖国の将来を憂うあまり汨羅(べきら)江に身を投げて死んでしまいました。これが、5 月5 日のことだったそうです。
屈原が亡くなった後、屈原の妻は夫の夢を見ました。夢の中で屈原は「川底には龍が住んでいて、私の食事を奪ってしまう。5 月5 日になったら、五色の糸を巻き付けて龍に似せた粽を川に投げ入れてくれないか。そうすれば龍たちは驚いて逃げるから、私が受け取ることができる。」と語り、目覚めた妻はその通りに川に粽を投げ込みました。このできごとが、端午の節句に粽を食べるようになった由来なのだと言います。」

(『続群書類従 公事部』「年中行事抄」より抜粋・意訳)

 

上巳の節句に続いて、またもやしんみりとしたお話が・・・。

今年は屈原さんに思いを馳せて、粽を食べてみてはいかがでしょうか。

画像:テーマ展「桃と端午の節句」より