5代盛岡藩主南部行信が描いた鍾馗の図です。

殿・・・、お見事でございます。本紙のサイズは高さ約132㎝×幅56.5㎝と大き目で、実際に見るとかなり迫力があります!

※南部行信はどのような人物かについてはこちら「企画展の窓から①南部行信の生き方」をご覧ください。

盛岡南部家には絵画を得意とする藩主が多く、火事などで失われたものを含めればかなり多くの絵が描かれていたことが分かっています。現在でも5月5日の端午の節句の際に絵や人形として飾られる「鍾馗」は、特に好まれて画題だったようです(※他には七福神の一柱「布袋」も多く見られます)。

さて、ここで鍾馗とは何者かご紹介します。

 

「玄宗皇帝と鍾馗 ~鍾馗が神になるまで~」

鍾馗は、中国で魔除け・疫病除けの守り神として信仰されていますが、もとは実在の人物であったと考えられています。人間であったころの鍾馗は、科挙合格を目指す非常に優秀な受験生でしたが、60 歳の制限年齢に達するまで合格できず、結局そのまま生涯を終えた人物であるとされます。生前無名だった鍾馗が表舞台に現れるのは、唐の玄宗皇帝の時代のこと。病に悩む玄宗皇帝の夢に現れた男が、夢の中で皇帝に襲い掛かる鬼を次々に捕まえ、退治して(食べて)しまいました。大きな目に濃いあご髭をたくわえ、緑色の衣装に黒い冠をつけ、長靴をはいた強面のその男は、科挙に落ちた書生であると名乗りました。目が覚めた玄宗皇帝は、お抱えの絵師であった呉道玄に男の姿を伝えて描かせ、以降魔除けの神としてまつられるようになりました。

後に伝わった日本でも鍾馗は厄除けや学業成就の神として信仰を集め、鍾馗を描いた幟や掛軸を端午の節供に飾って男児の健康な成長を願う風習に繋がって行ったのです。

※科挙不合格の理由は強面にあったとも言われています。そのことを哀れに思った玄宗の先代・高祖皇帝は、一定以上の身分の役人しか着られない緑色の服(緑袍)を着せて丁寧に葬ってやり、その返礼として鍾馗は玄宗を悩ます鬼を退治した、という話です。鍾馗が緑の服を着ているのはこのためです。

 

領内の飢饉や疫病に悩まされた盛岡藩主にとって、「鍾馗」の画題は単なる好みで描くものとは、違った意味をもっていたのかもしれませんね。

来週の「週刊鍾馗」第2号をお楽しみに。