盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)に関する多種多様な資料から、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第2弾。「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」絶賛開催中です。今回は江戸時代中頃、5代目から10代目までの藩主を掘り下げていますが、本日はまず5代盛岡藩主南部行信についてご紹介します 

 こちらが南部行信の束帯姿。寛永19年(1642)年に生まれ、元禄15年(1702)61歳で亡くなりますが、盛岡藩主となったのは元禄5年(1692)51歳の時でした。着任早々の元禄7年(1694)、東北地方で未曾有の大きな飢饉が発生します。後に盛岡藩四大飢饉の最初に数え上げられる元禄大飢饉ですが、この後も断続的に不作が続き元禄15年にも再び大飢饉となります。行信は約10年の施政期間、ほぼ元禄大飢饉への対応に追われることになります。

 こちらは盛岡藩で出された法令をまとめた「御家被仰出(南部家からの御命令の意)」。南部行信が元禄13年(1700)、以後の徴税方法を「自分検見」とすることを命じたことが記されています。江戸時代は、年ごとに作物の出来具合を検査して年貢の税率を決める「検見法」が一般的でしたが、この方法では毎年の年貢額が一定せず財政が常に不安定でした。これに対し8代将軍徳川吉宗は享保改革で、あらかじめ年貢額を決めておく「定免法」を採用していますが、一方で盛岡藩主南部行信は、検見法は「御百姓迷惑」であるとして、百姓自身が収穫量を勘案し年貢の利率を決定する自己申告制にしました。これが「自分検見」です。従来であれば藩から派遣される「検見役人」をもてなす負担も減り、百姓にとっては本当にありがたい法令だったようですが、これでは直接的に藩財政立て直すことは難しかったでしょう。しかしこのような「仁政(恵み深く思いやりある政治)」を施すことは、当時広まっていた儒教思想に基づき多くの大名が目指した姿でした。儒教を中心に学問にも力を入れていた行信らしい施策であったといえるでしょう。 

 一方で、行信は武術にも精通しており、特に馬術・砲術(火縄銃)については、自ら独自の流派を立ち上げており、まさしく「文武両道」の藩主であったことが知られています。また芸能の面でも様々な業績を残しており、特に江戸城で能「三井寺」を舞い、将軍徳川綱吉をはじめ諸大名から絶賛されたことは、現在まで盛岡藩の誇りとして語り継がれています。

 南部行信が創始した「心的妙化流」の砲術書

 

 南部行信が江戸城で「三井寺」を舞った時に着用した能面

 このような盛岡藩主の中でも抜きんでた資質を持っていた南部行信をもってしても、頻発する飢饉などで傾きだした盛岡藩を立て直すことは困難でした。しかしながらそのような状況下で、行信をはじめとする盛岡藩主がいかに生きていたのかを知ることは、盛岡の歴史を理解する上でも大切なことではないでしょうか。これまであまり知られることなかった盛岡藩主の姿を、垣間見ることのできる資料を中心に展示する、現在の企画展は7月2日(日)までの開催です。是非ご覧ください。