盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)に関する多種多様な資料から、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第2弾。「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」絶賛開催中です。この企画展で対象とした、江戸時代中頃、5代目から10代目までの盛岡藩主のうち、本日は6代南部信恩(のぶおき)についてご紹介します。 

 こちらが南部信恩の束帯姿。前回紹介した5代南部行信に比べて随分若々しく描かれています。延宝6年(1678)に生まれた信恩は、宝永4年(1707)に30歳という若さで亡くなっており、そのことが反映されているのでしょうか。しかも藩主となったのは元禄15年(1702)の25歳の時で在職わずか6年でした。元禄15年といえば盛岡藩四大飢饉の1つ、元禄大飢饉の猛威が最高潮に達していた時期で、これへの対応が信恩施政期間における緊急かつ重要な課題でした。

 別の資料(「南部家歴代画像」)の中では、信恩はこのように描かれています。30歳の若さで亡くなったにしては、苦労が滲み出ている姿に見えるのは私だけでしょうか…。

 こちらは信恩が、江戸幕府に対し、盛岡城修補の許可を得るために提出したものの控え。図の朱丸が補修するべき部分。4代藩主南部重信の段階で修補し始めていたものの、頻発する凶作により延期していた石垣の修復などを改めて申請しています。この資料が作成されたのは元禄16年、元禄大飢饉からの復興もままならない時期で、家臣への給与も支給できない状態でした。しかし石垣の孕みなどは放置すれば、大きな事故につながる事にもなるため、盛岡藩主(盛岡城主)として厳しい藩財政の中で修補を計画していたことがわかります。この10日後には江戸幕府老中から修補許可の連署奉書が発給されており、工事は開始されたと考えられますが、同じ年の11月23日には関東大地震によって盛岡藩の江戸屋敷も悉く破壊されており、その修復にも頭を悩ませなければなりませんでした。

 

 こちらは江戸時代末期の永田町付近を描いたもので、現在の日比谷公園近辺に南部美濃守(15代盛岡藩主南部利剛)の名が見えます。江戸時代を通じ参勤などで盛岡藩主が江戸に留まる際に居住するため、幕府から与えられた屋敷で一般的に上屋敷と呼ばれています。藩主不在の時にも、家老を中心に勤番で盛岡藩士たちが常駐し、幕府との交渉を行うなど藩の江戸役所としての機能を持っていました。盛岡藩上屋敷のあった地域(現在の東京都千代田区近辺)は「外桜田」と呼ばれ、屋敷の北方には江戸城外桜田門が見え、譜代大名の井伊家のほか、霞ヶ関を挟んで隣り合う松平美濃守(福岡藩主黒田家)や松平安芸守(広島藩主浅野家)といった有力な外様大名の江戸屋敷が集中していた地域です。盛岡藩主南部家に限らず、江戸での活動・立場などが自らの政治生命を左右することを認識していた幕藩体制下の大名にとって、この江戸屋敷こそが政治の表舞台であり最重要拠点でした。盛岡藩の江戸屋敷は麻布下屋敷(現在の有栖川記念公園)なども知られていますが、このような江戸屋敷は当時の大名社会を生きぬく上で欠かせないものであり、火事や地震などで損壊した場合には、どんなに財政が厳しい状況だとしても、可及的速やかに復旧させる必要があったのです。

 

 江戸屋敷を中心に展開していた大名付き合いの中でも、婚姻関係は特に重視されていました。この資料は南部信恩の婚儀・叙任・家督相続に関係する記録ですが、元禄13年(1700)盛岡藩主の跡継ぎとなった翌年、長府藩(5万石・萩藩支藩)の毛利綱元の娘と婚儀を結んだことが記録されています。先代南部行信も長府毛利家の娘を正室としており親密な関係であったようです。この関係は当然背後にある本家の萩藩毛利家(約37万石)ともつながることになり、婚姻関係が当時の大名社会で重要な意味を持っていたことがうかがえます。

 江戸を舞台に奮闘する盛岡藩主の姿は、盛岡藩領民には見えにくい姿でしたが、この努力がなければ盛岡南部家、ひいては盛岡藩自体の存続が危ぶまれたのが「江戸時代」という時代でした。このような意識されることの少ない盛岡藩主の姿を、垣間見ることのできる資料を中心に展示する現在の企画展は7月2日(日)までの開催です。是非ご覧ください。

 

担当学芸員:熊谷博史