盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)を軸に、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第3弾にして最終章「盛岡南部家の生き方 第3部 盛岡藩の終焉と南部家が繋ぐ未来」絶賛開催中です。今年は戊辰戦争や明治改元から150年目にあたり、全国的にも幕末・明治維新期が注目されておりますが、この流れに乗って当館でも江戸時代後期から幕末・明治維新期の盛岡藩の歴史を掘り下げております。4月19日(木)より開催し早くも折り返しを過ぎ、残り会期1ヶ月を切ってしまいました。去年からブログの「企画展の窓から」シリーズの一環として、こっそり藩主ごとのポイントをまとめておりましたが、今年も対象としている11代目から16代目まで盛岡藩主の生き方を紹介してみたいと思います。残り会期中で全員紹介できるかどうか…。まずは11代盛岡藩主・南部利敬からスタートです。

 

 こちら南部利敬の束帯姿。天明2年(1782)に生まれ、2年後には父である10代藩主・南部利正が死去し、わずか3歳にして盛岡藩主となります。もちろんこの段階で政治をできるはずもなく、しばらくは江戸で暮らし、寛政7年(1795)14歳の時にようやく藩主として盛岡入りしました。

〇飢饉伊呂波短歌・数え歌(ききんいろはたんか・かぞえうた)

 しかし利敬を待ち受けていたのは過酷な盛岡藩の状況でした。10年以上の藩主不在であった盛岡では、天明大飢饉の被害が拡大するなかで、藩財政は窮乏し、広大な領土の統治は困難を極めました。天保年間に作られたとみられるこの資料では、悲惨な飢饉の状況や、為政者への不満、将来への不安などを的確に表現した短歌が「いろは歌」に織り込まれています。

 

〇私残記(しざんき)・魯西亜侵略雑録(ろしあしんりゃくざつろく)

 国内の「内憂」に加え、鎖国を揺るがす「外患」にも悩まされていた時代、盛岡藩にとっては、特にロシアからの圧力に直接向き合わなければなりませんでした。文化4 年(1807)4 月23 日、択捉島の西、内保湾にロシア船が侵入し、盛岡藩が弘前藩とともに交戦に及んだ記録(写真下)が残されています。写真上のロシア船が描かれた「私残記」はロシア人と果敢に戦うも、捕縛されロシア船に連行された盛岡藩砲術師・大村治五平が書き残したものです。

 

〇箱館陣屋図(はこだてじんやず)

 ロシアの侵略から蝦夷地(北海道)を守るため、盛岡藩は幕府から蝦夷地警備を命じられます。その拠点として盛岡藩は箱館(函館)に陣屋を構えました。この関係で現在も函館山ロープウェイ乗り口に向かう道は「南部坂」と呼ばれています。ちなみに、まもなく(2018年6月22日)開通するフェリー航路によって、岩手県宮古(旧盛岡藩領)と結ばれる北海道室蘭にも盛岡藩の陣屋が築かれました。江戸時代から現代に続く深い御縁を感じつつ、是非いつか乗船してみたいものです。

 領内の問題を抱えながらも、箱館奉行(江戸幕府)の指揮のもと蝦夷地警備を務め続けたことが評価され、盛岡藩は10万石から20万石に加増、利敬自身も侍従に任命され、盛岡藩ならびに南部家の「格」が上昇しました。軍役などの負担増大という難点があるものの、過酷な状況下の藩の存亡をかけ、南部利敬は大名社会で少しでも優位に動くための手段として、格上げを目指していたのではないでしょうか。

 その他、評定所の設置や藩法「文化律」の制定など、下り坂を転げ落ちようとする盛岡藩を何とか食い止めようと必死で政策を展開していましたが、文政3年(1820)39歳の若さでこの世を去ります。3歳から数えて37年間、生涯盛岡藩主として生き抜いた利敬でしたが、まだまだ志半ばでの死であったでしょう。しかし彼の功績によって繋がれた「盛岡の未来」は確実にあったはずです。

 盛岡城跡に鎮座する櫻山神社には4人の南部家当主が祀られています。南部氏の始祖である鎌倉時代の南部光行、中興の祖ともいわれる初代盛岡藩主・南部信直、盛岡城と城下町の基礎をつくった2代盛岡藩主・南部利直、そしてこの南部利敬です。光行・信直・利直と並んで祀られる利敬が、南部家や盛岡にとっていかに重要な存在であったかがうかがわれます。

 これら教科書では触れられない激動の盛岡を守ろうとした、盛岡藩主たちをご紹介する今回の企画展は、7月1日(日)までの開催です。この機会に是非ご覧ください。

 

担当学芸員:熊谷博史