盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)に関する多種多様な資料から、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第2弾。「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」絶賛開催中です。この企画展で対象とした、江戸時代中頃、5代目から10代目までの盛岡藩主のうち、本日は10代盛岡藩主南部利正(としまさ)についてご紹介します。ついに10代目にたどり着きました。

 

 こちらが南部利正の装束姿です。甲冑姿も残されていますが、群を抜いて束帯姿(公家の正装)が似合う藩主です(個人的見解)。しかし彼、実は20代まで藩主になる予定などなく過ごしていました。宝暦2年(1752)に8代盛岡藩主南部利視の子として生まれますが、その年のうちに利視が亡くなり、利視の従弟にあたる南部利雄が9代藩主となります。その利雄にはすでに南部利謹という優秀な嫡男がおり、彼が次期盛岡藩主となることになっていました。そんな中、利正は明和6年(1769)18歳の時に分家である三田屋敷南部家の婿養子となり、この家を継ぐことになりました。ここで盛岡南部家の分家の話を少し。

 

 こちら『両信分記』と題する資料。「両信」とは南部主税政信と南部主計勝信2 人の「信」のことで、5 代南部行信が弟であるこの2 人に、分家を立てさせたことが記録されています。元禄7 年(1694)8 月21 日、表高10 万石に含まれない新田分から、政信に5 千石、勝信に3 千石それぞれ分与し、旗本として江戸幕府に出仕させています。2つの家はそれぞれ江戸での拠点によって「三田屋敷南部家(主計)」「麹町屋敷南部家(主税)」と呼ばれるようになりました。利正はこのうちの三田屋敷南部家を継ぎ、本家でもある盛岡南部家を支えていく立場にいたのですが、その後、数奇な運命に翻弄されることになります。安永3年(1774)利雄の嫡男利謹は自らの能力を過信したのでしょうか、江戸幕府の実力者であった田沼意次に掛け合い、幕政に参画しようと画策します。この動きに盛岡藩存続の危険を感じた利雄は、急遽利謹を藩主後継者の座から降ろすことにしました。結果、23歳の利正が盛岡南部家に戻り(これにより三田屋敷南部家は断絶)藩主後継者となったのです。安永9年、南部利雄が亡くなり、29歳で正式に10代盛岡藩主となりましたが、その前途は多難なものでした。

 

 藩主就任当初より不作・凶作が続き、天明3年(1783)ついに大飢饉が発生。盛岡藩四大飢饉の1つでもあり、全国的にも大きな被害をもたらした天明大飢饉です。この年に失われた米は189,220石といわれ、さらに『内史略(江戸後期の盛岡藩の歴史書)』などによると米屋の売り渋りなどにより米価が暴騰し、飢饉の被害は拡大したことがうかがえます。このような食料欠乏の中、翌年には悪食などの影響で疫病が大流行します。餓死者40,850人、病死者23,848人、他領への逃散者3,330人、空家100,850軒、そのうえ放火・盗賊・追剥・追込み・米騒動などが各地で発生し、牛馬はおろか人肉まで食べる者がいたといいます。

 

 天明3年8月25日、利正はある法令を発します。米価暴騰により食料を手にできない人々のため、暴騰した市場価格よりはるかに安い価格で藩の蔵米を払い下げることを命じたのです。この『御家被仰出(盛岡藩法令集)』では「御救」のための「払米」と呼ばれています。藩財政も逼迫している中で、この払米がどこまで効果を上げたか疑問はありますが、少なくとも藩主がこのような政策を打ち出していた事実を知ることは、盛岡藩の歴史を考える上では大切なことではないでしょうか。その他、盛岡城下の寺院に窮民救済のため「救小屋」を設置するなど必死の対策を講じますが、天明4 年(1784)、領内で疫病が蔓延する中、自らも罹病。しかし江戸参勤の年のため、病を押して参勤を強行したものの江戸到着後まもなく重体となり、そのまま江戸で死去。享年33 。

 

 こちらは利正が飢饉の際に着用し、領民の守護を願ったといわれる甲冑の胴部分です。表面に打ち出されているのは、あらゆる悪と煩悩を払いのけ人々を救う神とされる不動明王。現代人の感覚からすれば神仏に祈るくらいなら、他にやることがあるのではないかとも思われますが、わずか5 年の施政期間中ほぼ不作・凶作・飢饉の中、講じる対策も効果あがらず、神仏にすがる盛岡藩主の姿を考えると胸を打つものがあります。最終的に疫病にかかりながらも、盛岡藩主としての責務をまっとうすべく江戸参勤のため盛岡を発したとき、利正の胸中はどうであったのでしょうか、そして江戸で力尽きたとき彼は何を思いながら33歳の人生を閉じたのでしょうか…

 最終回にして少し感情的になってしまいました。ですが歴史を紐解くとき、立場はさまざまあれどそこには自分と同じ人間が、自分と同じように何かを考え・感じていたことを忘れないようにしたいものです。まして「殿様」と呼ばれる人々の気持ちなど考えも及ばない気がしますが、その一端でも感じてもらえばと企画した「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」。7月2日(日)までの開催です。是非ご覧ください。

 

担当学芸員:熊谷博史