盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)に関する多種多様な資料から、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第2弾。「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」絶賛開催中です。この企画展で対象とした、江戸時代中頃、5代目から10代目までの盛岡藩主のうち、本日は9代盛岡藩主南部利雄(としかつ)についてご紹介します。

 

 束帯姿の南部利雄です。享保9年(1724)7代南部利幹の子として生まれ、宝暦2年(1752)8代南部利視の跡を継いでから、安永8年(1779)56歳で亡くなるまでの28年間、盛岡藩主として活動しています。後世の歴史書などでは、利雄は藩主となって以降、政治のことは全て家老に任せ、何か言われても一つも拒むことなく必ず「そうしろ、そうしろ」と言うため、「惣四郎君」と呼ばれていたといいます。しかし残された史料を見る限り、しっかりと利視の跡を受け様々な施策を積極的に行い、藩政の立て直しに務めていたことが見て取れ、そこからは「惣四郎君」とは別の姿が浮かび上がってきます。

 

 利雄の施政期間、再び盛岡を大飢饉が襲います。盛岡藩四大飢饉の1つ宝暦大飢饉です。こちらの『公国史』は、徳川光圀が編纂させた『大日本史』に倣って江戸時代後期にまとめられた盛岡藩の歴史書で、そのうち経済や財政について記述された「食貨志」には、宝暦5 年(1755)の飢饉に関して詳細に記されています。盛岡藩本高10 万石と新田高14 万8 千石を合わせた実際の藩収入24 万8 千石のうち、19 万9 千7百石の米が損害を受け、翌年には疫病も大流行したため6 万余人の死者を出したといい、これ以降も断続的に凶作が発生し続け盛岡藩財政に致命的なダメージを与えます。

 

 過酷な状況にも関わらず江戸幕府からの命令は止むことはなく、利雄の時期には度重なる手伝普請命令が大きな負担となりました。この明和7年(1770)に命じられた仙洞御所(退位した天皇=上皇の住居)の造営に関する書留には当時の状況を詳細に知ることのできる貴重な資料です。他藩の人間に間違われないためでしょうか、盛岡藩の者が現場で着用すべき指定羽織が描かれています。現在の盛岡市章にもなっている違菱(南部家定紋の1つ割菱をアレンジしたもの)を使用しているのは興味深いところです。そのほか日光山本坊の修復など、盛岡藩とは直接関係のない土木工事への出費のたびに、借金を重ねることになり、盛岡藩財政は立ち直れないほどの状態になっていきます。

 

 そのような中、こちらの史料は利雄が盛岡藩家老に宛てて書いた書状になりますが、ここには利雄のある「思い」が切々と語られています。それは何としても「老中招請」を実施すること。「老中招請」とは大名の跡継ぎが家督を継いだ際、江戸幕府老中を招いて宴を催すことで、当時の大名社会における常識でした。これから一人前の大名として認められるために絶対不可欠の条件だったようです。しかし当然そこでは一定の費用を必要とし、財政難の盛岡藩を継いだ利雄は宝暦2年(1752)の家督相続直後は老中招請を実施することができないでいました。この手紙では、「今年こそ(宝暦4年・1754カ)、普段は意識しないところまで配慮して精一杯節約し、そして老中招請という大きな責務を乗り越えること」を大きな目標として掲げています。しかしその後も凶作・飢饉などで延引し続け、結局、利雄の老中招請は宝暦10年(1760)にまでずれ込んでしまいます。ひどい状況の中で何とか実施しようとする利雄の律義さ実直さは見上げたものですが、逆に当時の大名社会で生き抜くためには、このような配慮は欠かせないものだったのでしょう。

 その他、贈答儀礼における対応を含め、大名付き合いにおけるきめ細やかな対応などを合わせ考えると、利雄とは人一倍の気遣いをする人物であったことは想像されます。そのような姿勢が「惣四郎君」のイメージにつながったのでしょうか。まだまだ盛岡藩主の実像は計り知れないものがありますが、そんな彼らの姿を垣間見ることのできる資料を中心に展示する現在の企画展は7月2日(日)までの開催です。是非ご覧ください。