盛岡南部家の歴代当主(盛岡藩主)に関する多種多様な資料から、改めて盛岡の歴史を辿る企画展第2弾。「盛岡南部家の生き方 第2部 揺らぐ盛岡藩に立ち向かう南部家」絶賛開催中です。この企画展で対象とした、江戸時代中頃、5代目から10代目までの盛岡藩主のうち、本日は8代盛岡藩主南部利視(としみ)についてご紹介します。個人的には今企画展で対象とした藩主の中でも特に興味深い藩主です。

 こちらが南部利視の束帯姿です。6代南部信恩の子として宝永5年(1708)に生まれますが、父である6代南部信恩の死後に生まれたこともあり、叔父の利幹が7代目盛岡藩主となりました。しかし宝永7年(1710)には利幹の養子となり、3歳の段階から次期盛岡藩主として成長していきます。その後、利幹の死去を受け8代盛岡藩主となったのは、利視が18歳の時。先代利幹期の努力もあり、藩財政は一時回復したものの、頻発する災害や江戸幕府からの度重なる負担により、決して油断できない時期でした。藩主就任当初は家老に政治を委ね、藩政を顧みなかった結果、利幹期の厳しい緊縮財政が破棄され放漫財政となり、盛岡藩は再び借金が膨張し始めます。しかし享保16年(1731)24 歳の時に一念発起し、自ら政治を行うことを宣言したあとの、目覚ましい政治手腕は目を見張るものがあり、南部家の事績をまとめた歴史書の中で、称賛されることも少なくありません。

 たとえばこちら。盛岡藩主家から発せられた法令類をまとめた『御家被仰出』ですが、元文5年(1740)に利視が盛岡城下の紙丁橋(現在の上ノ橋)番所付近に「箱」を設置することを命じたことが記録されています。これは「下々之存念」つまり庶民の意見を聞くためで、江戸幕府将軍の徳川吉宗が江戸城辰ノ口に設置した目安箱と同じ目的のものといえます。利視は盛岡藩を立て直すにあたり、この徳川吉宗を強く意識していたらしく、「享保の改革」を指標としながら、勤倹節約・制度簡略化などの藩政改革を推進していたことが知られます。

 利視による藩政改革の一端として注目したい資料が、こちらの『下風呂湯治記録』です。下北半島の下風呂(青森県下北郡風間浦村)に、「御忍」で湯治に行った際の記録ですが、元文4年(1739)8 月21 日から9 月22 日まで約1ヶ月にも及ぶ行程が記されています。ずいぶん暢気なことをしているように見えますが、資料からは下風呂の温泉に入った記録は1度のみ(しかも汲み湯)で、道中における古跡・古物・代官所・牧・村々の視察に重点が置かれていたことがわかります。つまりこれは湯治の名を借りた領内巡視であり、諸改革を遂行するため、直接自分の目で各地を見て回ることで、広大な盛岡藩領の把握に努めていたのです。堅実な政治姿勢です。

 利視が使用していた「御卜之品」、つまり占い道具です。利視の特性の1つに神社・神道への傾倒が指摘されますが、この道具はその徴証となる資料です。日本古来のアニミズム(自然崇拝)に起源を持つ神道では、占いによって神意をうかがい、それを「政(マツリゴト)」に反映させていたといいますが、利視も頻繁に占いを行っていたようです。藩祖南部信直(のちに光行・利直・利敬を合祀)を祀った淡路丸大明神(現在の櫻山神社)の創始は、占いで日時を決め、利視自ら儀式を行い鎮座させたといいます。

 利視の志向性を象徴するかのような甲冑姿がこちら。鳥居を頂く特徴的な兜ですが、鳥居に掲げられた神額に記された「八幡宮」は、ご存知の通り「源氏の氏神」です。源氏の流れを汲む南部家として、その血統を大切にしていたことがうかがえます。ちなみにこちらの甲冑は櫻山神社からお借りした「本物」を展示中です。普段は見ることのできない貴重な鎧兜ですので、この機会に是非ご覧ください。

 こちらは「南部記録(上)」「南部系図(下)」、南部家の歴史をまとめたもので、利視が編纂させたものです。系図や歴史書といったものは後世にまとめられたものであるため、扱いの難しい資料ですが、それが編纂された意図やその背景を考えることは重要な「歴史」につながります。利視は盛岡藩が傾くなか、その統治者として改めて自分たちの歴史を見つめ直し、「南部家」としてのアイデンティティの形成を積極的に試みた藩主でした。先ほど見た「下風呂湯治(巡視)」中にも、領内各地の古文書や遺物を記録・収集させるなど、アーカイブズ政策を推進しており、それらが南部家の歴史像構築に寄与したことは間違いないでしょう。

 傾きだした藩政を立て直そうと、盛岡藩主が特徴的な政策を次々と打ち出していたことは、これまであまり知られていませんでした。このような知られざる盛岡藩主の姿を、垣間見ることのできる資料を中心に展示する、現在の企画展は7月2日(日)までの開催です。是非ご覧ください。