「奥羽仕置」とは天正18年(1590)豊臣秀吉により断行された東北大名に対する処分・配置換えや諸政策を示す歴史用語です。

全国支配を進める秀吉は、その総仕上げとして奥羽の地を平定しようと考えましたが、奥羽仕置の強行に対して反発が強まると、各地では一揆が立ち上がりました。翌、天正19年(1591)一揆鎮圧のための軍が動員され、蜂起によって揺り戻された仕置をやりなおす「奥羽再仕置」が行われ、豊臣政権の世が訪れます。

令和3年(2021)は、奥羽再仕置によって秀吉の天下統一が完成してから430年という節目の年になります。これに関連する地域の資料館・博物館が連携して奥羽再仕置430年を記念する展示等を本年度に実施し、日本史上の大きな転換点となった奥羽再仕置の意義を再評価したいと思います。

奥羽再仕置430周年記念プロジェクトリーフレット (※クリックしてください)

 

< もりおか歴史文化館 「奥羽再仕置と南部領」 >

豊臣秀吉による全国統一の動きに対し、これまで独自の権力により領国の土地と人を支配していた各地の戦国大名たちは、かつてない政治的判断を迫られることになった。しかも急速に激動する時代展開の中で逡巡している猶予などなく、特に秀吉が天正13年(1585)に関白となり惣無事令を発布するなど、「天下人」としての姿を明確に表す段階にいたると、ほとんど予断も許されない状況であったといえる。この「天下人」を受け入れるか否か、あるいは統一された「天下」の中に自分たちをどのように位置づけるか。難しい判断が迫られていた。

陸奥国三戸城を拠点として勢力を張っていた南部家も例外ではなかった。この時期の当主は26代目の南部信直であり、彼は天正10年(1582)に養父・三戸南部晴政とその後継者晴継が相次いで死没したことによる家督相続問題が巻き起こる中で、三戸南部家を継いだばかりであった。戦国大名の南部家としては依然周囲に勢力を争う大名や領主がおり、一方で南部家内部にも家督相続問題以来、信直に反発する勢力が燻っていた。

今回は当館収蔵資料から、奥羽再仕置における南部領の動向を辿っていく。家督継承直後で基盤が不安定な中、内外の反対勢力と対抗していくためにも、三戸南部家・南部信直がどのように豊臣秀吉と結びつき、豊臣政権下の大名として動いていったのか、その一端を紹介する。

※展示資料:5点

豊臣秀吉禁制(天正18年)

南部信直宛浅野長吉書状(天正18年)

東直義宛浅野長吉書状(天正19年)

蒲生氏郷起請文(天正19年)

浅野長吉・堀尾吉晴・井伊直政・蒲生氏郷連署書下(天正19年)

 

期 間  開催中~2021年7月12日(月)

会 場  歴史常設展示室・展示室Ⅳ

料 金  一般300円、高校生200円、小・中学生100円